宮原神社について

宮原神社について

宮原神社

当宮は、通称「太刀ノ宮」の名で親しまれています。 ご本殿の御祭神は、誉田天皇、気長足姫尊、比売大神をお祀りし、文化・学問・出世開運・家内安全・安産・渡航・交通安全の霊験あらたかな神様として信仰されてきました。 古くは平安時代816年に九州・宇佐八幡宮より勧請され、宮原八幡宮と称されました。
明治に、村内の末社である「太刀ノ宮神社(猿田彦大神)」、熊野九十九王子の一つ「蕪坂王子」「山口王子」、「春日神社」等が合祀され、別宮の水主神社をはじめ、これらの末社を総称して、明治に宮原神社に改められました。

宮原の里は、古くは熊野街道(熊野古道)が通り、南には高野山から流れ出る有田川があります。江戸時代の頃より、紀州みかんの産地として、栄えてきました。また、古代に十五代天皇・応神天皇の荒田皇女【古事記:木之荒田郎女】が御住まいした場所とも言い伝えられています。
始まりは、古代に山城国城陽から水主神社(御祭神・天照御魂、大國魂命)の二柱の神が勧請され、氏神として祀られました。
この地の農耕の発展を願い、本殿と同様に四季を通じて現在でも祭祀されています。

境内に祀る「太刀ノ宮神社」は、病気平癒の神様として厚く信仰され、特に「ぜん息」などの気管支の病や「がん」などの治りにくい病から苦しみを和らぎ、回復すると遠方からも多くの参拝があります。

八幡宮 御祭神 誉田別尊(ホムタワケノミコト)
気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)
比売大神(ヒメノオオカミ)
別宮:
水主神社
御祭神 天照御魂(アマテラスミタマ)
大國魂命(オオクニタマノミコト)

春日神社 春日神社

太刀ノ宮神社 太刀ノ宮神社

水主神社 水主神社

由緒

御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、十五代天皇応神天皇のことである。気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、九代開化天皇の曽曽孫で、十四代仲哀天皇の皇后となり、神宮皇后(じんぐうこうごう)とよばれる。時に筑紫国熊襲の反乱を 鎮めるため天皇と共に九州に渡られたが、 背後にある朝鮮半島の新羅国を打つことの必要を感じられ、天皇の喪を秘して海に渡り、新羅を打たれた。
帰国後に誉田別王子を出産、幼帝を擁立(ようりつ)して摂政の位につかれ、政務を執られた。比売大神(ひめのおおかみ)【多伎都姫命、市柿島姫命、多紀理姫】は天照大神のお子たちで、神功皇后が三韓への出陣に際し、この三神に戦勝祈願したといわれる。

当宮八幡大神は五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁7年丙申年(816年)の草創で宇佐神宮より勧請されたと伝えられている。「文徳照臨の尊神として武運監護の霊祠なり」と古から言われ尊崇祭祀された。その頃の神領は、宮山のした、宮の前一帯に四十数町歩を領し、宮殿八宇山囲んで壮厳をきわめた。(北は白倉山から東の峰沿いに岩室山へ、西は峰沿いに市原へ。南は糸我、雲雀山から星尾まで)と言い伝えられている。
その後争乱の世を経て、1284年(鎌倉時代)に、由良の興国寺開山法燈国師が再開眼の供養をしたといわれている。
元は『宮原八幡宮』と称し、紀州藩主・徳川頼宣公(1619年)以来代々崇敬厚く、熊野参詣の道中、当宮にも参詣されたと言い伝えられている。
1677年、若狭守源令綱(藩主徳川頼宣、光貞に仕える)より、三十六歌仙扁額が奉納されている。

境内に祀られている別宮・水主神社は、八幡宮が勧請された以前より祀られていたとされる。(創祀年代不詳)
天保4年・紀伊国名所絵図より、紀伊國神名帳・在田郡・正五位下水主明神に比定され、社伝によれば、この地を開拓したときに創祀された氏神である。

影向岩と御手洗池(はす池)

境内地の両脇から流れる小川が一本の川になる合流点に影向岩(神を向かえる岩)が立ち(不明)、この小川を小瀬の浦と称し、御手洗池(江戸時代、有田川の氾濫により消失する)に注ぎ、神主はそこで禊を行った。また、放生会を執り行った。
明治時代(1868年)神仏分離政策等により、『宮原神社』と改め、社格は村社となる。

※天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めによって、縁起巻物や神領証文など多数没収された。 現在宮原神社については、ほとんど不詳であるが、宮原神社所蔵の御鎮座記、社家・宮本氏(藤原姓)所蔵の写書き等を参考に記載する。

八幡大神御鎮座記(室町時代永禄5年)

当宮は八幡大神は、人皇五十二世嵯峨天皇の御宇弘仁七年丙申の歳(平安時代816年)の草々なり。文徳昭臨の尊神にして、武運鑑護の霊祠なり。
尓来在ますが如きの祭りごと怠らず来格の誠やむ無し。ここを以て尊崇祈請世を挙げて競争する所なり。
然るに年を閲し月を経る久しきに至り、世の治乱相遷り物の興廃互いに変ず。ここを以て宮殿の制 祭祀の儀も亦草創の時より変ず。
是に人皇第九十一世宇多帝の御宇に至り、弘安七年甲子(鎌倉時代1284年)旧の興廃を廻し宮殿再び新たに祭奠重庸す。厥后星霜を積みて嘉吉元年(室町時代1441年)
源常人、永正十三年(室町時代1516年)源順家、天文十五年(室町時代1546年)萬徳丸源ノ某達 尊崇尤も深く、敬仰甚だ厚し。
乃 修理の力を致し 以て神意眷々の徳に報じ、人心遑々の望を達す。ここを以て宮社諸殿また廃闕の患い無く、神領社再び侵竊の禍い無し、是れ人心崇敬の厚きに依ると
雖、偏に神威崇廣の致す所なり。月城は貴賎老幼 誰か之を信敬せざらん。況や邦民に於乎。況や郷人に於乎。氏當宮神徳の嚇々たるは国史之を載せ 邦人これを称す。
昭著明白なるを以て、更 記すを持たず、當宮の事跡の詳しきことは、神社記 神宝記に年中行事、當宮當郷地理の図等 各これを記して遺漏無し。

今神主藤原政淑(第二十一代)之を請有るを以て、旧記の載する所を拾い、以て後鑑に備ふる者也。
維トキ 永禄五年 壬辰(室町時代末1562年)九月良辰

八幡大神御鎮座記(室町時代永禄5年)より