宮原神社について

宮原神社 ― 悠久の時を刻み、人々の平安と繁栄を見守る

宮原神社

宮原神社は、有田川をのぞみ、熊野古道が通る紀伊国・宮原の里に鎮座する古社です。

御本殿には、誉田天皇(応神天皇)、気長足姫尊(神功皇后)、比売大神をお祀りし、学問・出世開運(勝負運)・厄除け・家内安全・安産・渡航・交通安全などの御神徳を仰ぎ、古くより氏子をはじめ多くの人々から崇敬されてきました。

宮原の地は古代より開かれていたことが、奈良・平城京跡から出土した木簡などからもうかがわれます。この地には秦氏をはじめ、開拓や農耕に携わった人々が暮らしていました。

その古い信仰の始まりを今に伝えるのが水主神社です。水主大明神は、八幡宮がこの地に祀られる以前から御鎮座されていたと伝わります。古代よりこの地を拓き、農耕を営んできた人々の暮らしと深く結びついてきました。

水主神社は今も御本殿とともに篤くお祀りされ、四季を通じて祭祀が執り行われています。

また宮原の地は、第十五代応神天皇の皇女・荒田皇女(『古事記』では木之荒田郎女)が住まわれた地の比定地の一つとも伝えられています。

その後、平安時代の弘仁7年(816年)、九州・宇佐八幡宮より八幡大神を勧請し、「宮原八幡宮」と称したと伝えられています。

平安時代には、この宮原の地は藤原氏ゆかりの勧学院領「宮原庄」となり、熊野参詣の道としても多くの人々が行き交いました。境内には春日神社も祀られ、長い歴史の中でさまざまな信仰がこの地に受け継がれてきました。

宮原の里には旧熊野街道(熊野古道)が通り、南には高野山に連なる山々を源とする有田川が流れています。高野山との歴史的な関わりも伝えられ、また江戸時代以降は紀州みかんの産地として栄えてきました。

明治時代には、村内に祀られていた道祖神社(太刀宮)、熊野九十九王子にゆかりのある蕪坂王子・山口王子、春日神社などが合祀され、別宮の水主神社をはじめとする諸社とともに、現在の「宮原神社」へと改称されました。

境内に祀られる「太刀ノ宮神社」は、猿田彦大神を御祭神とし、病気平癒の神として古くから篤い信仰を集めています。特に、ぜん息など気管支の病や癌をはじめ、治りにくい病の平癒を願い、現在も遠方から多くの方々が参拝されています。

古代より幾世代にもわたり、この地で受け継がれてきた神々への祈りと、人々の営み。宮原神社は、その悠久の歴史と信仰を未来へ受け継ぎ、氏子の里の安寧と繁栄はもとより、全国よりお参りになる崇敬者の皆様の平安を祈り、今日も変わることなく祭祀を執り行っています。

八幡宮 御祭神 誉田別尊(ホムタワケノミコト)
気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)
比売大神(ヒメノオオカミ)
別宮:
水主神社
御祭神 天照御魂(アマテラスミタマ)
大國魂命(オオクニタマノミコト)

春日神社 春日神社

太刀ノ宮神社 太刀宮

水主神社 水主神社

由緒

御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、十五代天皇応神天皇のことである。気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、九代開化天皇の曽曽孫で、十四代仲哀天皇の皇后となり、神宮皇后(じんぐうこうごう)とよばれる。時に筑紫国熊襲の反乱を 鎮めるため天皇と共に九州に渡られたが、 背後にある朝鮮半島の新羅国を打つことの必要を感じられ、天皇の喪を秘して海に渡り、新羅を打たれた。
帰国後に誉田別王子を出産、幼帝を擁立(ようりつ)して摂政の位につかれ、政務を執られた。比売大神(ひめのおおかみ)【多伎都姫命、市柿島姫命、多紀理姫】は天照大神のお子たちで、神功皇后が三韓への出陣に際し、この三神に戦勝祈願したといわれる。

当宮八幡大神は五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁7年丙申年(816年)の草創で宇佐神宮より勧請されたと伝えられている。「文徳照臨の尊神として武運監護の霊祠なり」と古から言われ尊崇祭祀された。その頃の神領は、宮山のした、宮の前一帯に四十数町歩を領し、宮殿八宇山囲んで壮厳をきわめた。(北は白倉山から東の峰沿いに岩室山へ、西は峰沿いに市原へ。南は糸我、雲雀山から星尾まで)と言い伝えられている。
その後争乱の世を経て、1284年(鎌倉時代)に、由良の興国寺開山法燈国師が再開眼の供養をしたといわれている。
元は『宮原八幡宮』と称し、紀州藩主・徳川頼宣公(1619年)以来代々崇敬厚く、熊野参詣の道中、当宮にも参詣されたと言い伝えられている。
1677年、若狭守源令綱(藩主徳川頼宣、光貞に仕える)より、三十六歌仙扁額が奉納されている。

境内に祀られている別宮・水主神社は、八幡宮が勧請された以前より祀られていたとされる。(創祀年代不詳)
天保4年・紀伊国名所絵図より、紀伊國神名帳・在田郡・正五位下水主明神に比定され、社伝によれば、この地を開拓したときに創祀された氏神である。

影向岩と御手洗池(はす池)の伝承

境内地の両脇から流れる小川が一本の川になる合流点に影向岩(神を向かえる岩)が立ち(不明)、この小川を小瀬の浦と称し、御手洗池(江戸時代、有田川の氾濫により消失する)に注ぎ、神主はそこで禊を行った。また、放生会を執り行った。
明治時代(1868年)神仏分離政策等により、『宮原神社』と改め、社格は村社となる。

※天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めによって、縁起巻物や神領証文など多数没収された。 現在宮原神社については、ほとんど不詳であるが、宮原神社所蔵の御鎮座記、社家・宮本氏(藤原姓)所蔵の写書き等を参考に記載する。

八幡大神御鎮座記(室町時代永禄5年)

当宮は八幡大神は、人皇五十二世嵯峨天皇の御宇弘仁七年丙申の歳(平安時代816年)の草々なり。文徳昭臨の尊神にして、武運鑑護の霊祠なり。
尓来在ますが如きの祭りごと怠らず来格の誠やむ無し。ここを以て尊崇祈請世を挙げて競争する所なり。
然るに年を閲し月を経る久しきに至り、世の治乱相遷り物の興廃互いに変ず。ここを以て宮殿の制 祭祀の儀も亦草創の時より変ず。
是に人皇第九十一世宇多帝の御宇に至り、弘安七年甲子(鎌倉時代1284年)旧の興廃を廻し宮殿再び新たに祭奠重庸す。厥后星霜を積みて嘉吉元年(室町時代1441年)
源常人、永正十三年(室町時代1516年)源順家、天文十五年(室町時代1546年)萬徳丸源ノ某達 尊崇尤も深く、敬仰甚だ厚し。
乃 修理の力を致し 以て神意眷々の徳に報じ、人心遑々の望を達す。ここを以て宮社諸殿また廃闕の患い無く、神領社再び侵竊の禍い無し、是れ人心崇敬の厚きに依ると
雖、偏に神威崇廣の致す所なり。月城は貴賎老幼 誰か之を信敬せざらん。況や邦民に於乎。況や郷人に於乎。氏當宮神徳の嚇々たるは国史之を載せ 邦人これを称す。
昭著明白なるを以て、更 記すを持たず、當宮の事跡の詳しきことは、神社記 神宝記に年中行事、當宮當郷地理の図等 各これを記して遺漏無し。

今神主藤原政淑(第二十一代)之を請有るを以て、旧記の載する所を拾い、以て後鑑に備ふる者也。
維トキ 永禄五年 壬辰(室町時代末1562年)九月良辰

八幡大神御鎮座記(室町時代永禄5年)より